■夕顔(ゆうがお)

 源氏の君が、六条のあたりにお忍びで通っていた、十七才の夏頃の話である。御所から六条へ向かう途中、源氏の君は休息を兼ねて五条にある乳母の家を訪ねた。大弐の乳母(だいにのめのと)が重い病気にかかり尼になったと聞いたので、お見舞いしようと思っていたのだ。

 前ぶれもなく出かけたので、乳母の家の門は閉まっていた。乳母の息子--惟光(これみつ)を呼びに従者を向かわせ、源氏の君は車で待ちつつ小さな家が立ち並ぶ五条大路を眺めていた。すると、乳母の家の隣にある家の中から、女達がこちらを覗いているのに気がついた。どうゆう身分の女なのか? 今日は目立たない網代車に乗ってきたことだし、前ぶれもなく訪ねてきたので、自分がどこの誰ともわからないだろう。源氏の君は鷹を括り車の窓から顔を出して、女達がいる家を覗き込んだ。粗末な屋敷には、見た事のない白い花が咲いていた。従者に問いかけると、その白い花は夕顔という名前だと答えが返る。源氏の君が一房折ってくるように命じると、従者は門をくぐって花を取った。その従者に声をかける者がいる。夕顔の家に使える女童(めのわらわ)である。少女は白い扇を差し出して「これに乗せて差し上げて下さい」と扇を渡した。ちょうどその時、屋敷から惟光が出てきたので、従者は惟光経由で源氏の君に花を届けた。

 惟光の屋敷には、彼の兄--阿闍梨(あじゃり)、この家の婿である三河の守(さんみのかみ)などが集まっていた。源氏の君の見舞いに感激して、乳母も床から起き上がっている。病気について励ましたりしながら、源氏の君は乳母を慰め、最後に病の祈祷(きとう)を行うように命じて帰る事にした。乳母の部屋を出てから、源氏の君は先ほどの白い扇を改めて眺めた。扇には風情のある文字で和歌が書かれている。源氏の君は「西隣の家はどんな人が住んでいるのか?」と惟光に訊いたが、また女好きの悪い癖が出たのかと内心思う惟光は、にべもなく「知りません」と返してきた。しかし、源氏の君がどうしても知りたがるので、惟光は下男を呼んで事情を訊いた。西隣は揚名の介(ようめいのすけ)の家だった。主人は地方へ行っており、妻の元へ彼女の姉妹などで宮仕えをしている女房(にょうぼう)たちが時々遊びに来ているらしい。相手の素性がわかった源氏の君は、遊び心も手伝って、筆跡を変えて和歌をよみ、女達の元へ届けさせたのだった。

 源氏の君は本来の目的である六条の屋敷へ出かけた。六条の屋敷はとても優雅な住まいである。この屋敷の女主人は、六条の御息所(ろくじょうのみやすどころ)とう先の東宮妃であった。彼女はたいへん気品に満ちた素晴らしい女性である。
 六条に泊まった源氏の君は、翌朝、少々寝坊して、日が登る時刻に帰路についた。帰りがけにまた夕顔の家の前を通ったところ、今まで見過ごしてきた家だと言うのに気になってしかたがない。どうゆう女性が住んでいるのか、細かい事情が知りたかった。住まいからすると、いつぞやの雨夜の品定めで、左馬の頭(さまのかみ)が言っていた、者の数にも入らない下の品に入る部類だとわかっていても、こうした所に思いがけず優しい女性をみつけたならば、と好奇心が動くのであった。

 そんな折りしのことである。空蝉(うつせみ)の夫--伊予の介(いよのすけ)が任国から帰って来た。伊予の介は、普段世話になっている源氏の君の元を訪ね、色々な報告とともに、娘を嫁がせ妻を任国へ連れて帰る旨を伝えた。話を聞いた源氏の君は、急に心がざわめいて、空蝉に何とか会えないものかと、空蝉の弟--小君(こぎみ)に相談するが、どうにもならない。二人があう事は叶わなかったが、源氏の君が出した手紙には、空蝉からも、ふさわしい折々などに親しみ深い返事が返るようになっていた。なので、源氏の君は空蝉のことを強情な女だと憎らしく思う反面、忘れられないのであった。

 季節は秋になった。源氏の君は、正妻--葵の上(あおいのうえ)の元へはもとより、始めは頻繁に訪ねていた愛人--六条の御息所(ろくじょうのみやすどころ)の元へもあまり通わなくなっていた。周りの者は、あれほど熱中していた六条の御息所へ出向かないのはどうしたことか? と思っていた。当の六条の御息所も心穏やかではない。彼女は物事を思いつめてしまう気性であった。源氏の君との話を世間の人が聞いたなら、年も離れていて相応しくないと感じるだろうし、又かりそめの愛人として扱われるような身分ではない自分が、若い源氏の君の好色心に弄ばれたと後指をさすだろう。六条の御息所は心が張り裂けるような心地であった。一方、源氏の君は、惟光の計らいで、夕顔の元へ素性を隠したまま通うようになっていた。

 八月十五日のことである。夕顔の家に泊まった源氏の君は、翌朝、夕顔と侍女である右近だけを車に乗せて、近くの某院へ連れて行った。到着した某院は、手入れが悪く草木が鬱蒼と生い茂っていた。荒れ果てた庭を前にした古い家屋は、この世の物ではないほど恐ろしい。そんな気味が悪い屋敷で、源氏の君と夕顔は睦言を交しながら一日を過ごした。夜更けの頃、とろとろと夢うつつで寝ていた源氏の君は、美しい女が枕元に座り「私がこんなにも慕っているのに、こんな取り柄のない女を寵愛するのは心外で恨めしい」と、隣に寝ていた夕顔を掻き起そうとする夢を見た。うなされて、はっと目を覚ますと、明かりが消えて辺は闇だ。源氏の君は怯える夕顔を侍女の右近に任せ、警備の者へ指示を出しに行った。しかし、源氏の君が部屋へ戻った時には、夕顔は既に息絶えていた。惟光の計らいで夕顔の亡骸は、密かに東山へ葬られる事になった。荼毘に付される前に、源氏の君は夕顔の亡骸と最後の対面をする。生前と変わらない可愛らしいようすの亡骸を前に、源氏の君は涙を流すのだった。

 夕顔を失った深い悲しみに、源氏の君は病気になってしまった。長患いが続き、九月二十日頃には回復して起き上がれるようになったが、ぼんやり外を眺めては悲しみに暮れる日を過ごしている。夕顔の侍女であった右近を呼んで、亡き人の想い出を語り合う内に、源氏の君は右近から夕顔の正体を明かされた。夕顔は源氏の君が想像していた通り、雨夜の品定めで頭の中将(とうのちゅうじょう)が語った、行方しれずになっている内縁の妻であった。二人の間には、三才になる姫君がいるとのことだった。

 十一月一日の頃、ついに空蝉は夫と任国へ下ることになった。源氏の君は、密かに餞別の品々を送るとともに、いつぞやの小桂を届けさせた。空蝉からも返歌が届く。どう考えても、他の女性とは違った気の強さで、自分をつれなく袖にした空蝉の事を、源氏の君はいつまでも思い続けた。人に打ち明けられない恋は辛いものだ、と源氏の君は身に染みて思うのだった。


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