永和号と日本と中国の歴史
   
 北京の観光名所、西太后が好んだという頤和園の奥に石の船があるのは皆さんもご存知でしょう。そしてその石の船のちょっと北に、錆びた船が放置されているのですが、そのことをそ存知の方は少ないのでは。

 その錆びた船が日本から西太后への贈り物だと私が知ったのは、留学したその冬のことでした。友達と二人で頤和園の昆明湖にはった氷の上を歩いて横切ったり、冬の頤和園を楽しんだ後、何気なく入ったお土産屋さんで、日本語が出来るおじいさんとお話ししたとき教えられたのがその船のことでした。

 昔は船の名前が書いてあったのだけれどね。文化大革命のときに消されてしまったんだよ。「**丸」って書いてあったと思うんだが。とにかくその船は日本国政府から西太后に送られた船だったんだ。日露戦争のときに、清国が日本に協力したお礼ということでね。

 その後、数年して、その船は、日本の川崎造船所(現川崎重工業)が作った船だということを日本の方から知らされ、その船の名前が「**丸」ではなく「永和号」であったということを知りました。しかし、それから長い間、中国側の資料の中で「永和号」にであうことはありませんでした。

 それから10年以上が経った最近、ある本の中で「永和号」について解説されている部分に出会ったのです。

 永和号は、日本国政府から、西太后へ、日露戦争時に清国が日本に塩を贈ったそのお礼として贈られた船でした。その当時、各国が西太后に贈った贈り物のひとつだったのです。

頤和園昆明湖に浮かぶ永和号

写真提供:川崎重工業(株)
北京事務所

 日本国政府から委託を受けた川崎造船所は、北京に「阪元」ら技師を送り込み、気候、風俗、習慣を調べ船を設計、日本で一度組みたてた後に、分解、万成源丸で神戸から天津へ、列車で北京に運び、日本から技師、職人を送り込んで頤和園にて再度組み立てました。そして1898年5月、醇親王や外務大臣・袁世凱、日本の臨時公使らの列席する中、献納式典が行われ、船は西太后によって中国と日本の友好を願い「永和号」と命名されました。式典後、西太后は船で昆明湖を一周したといいます。

 その後清朝が滅び、この船は沈没しかけて修理されることもなく石船の近くに停泊していました。1921年ごろ甲板まで沈んでいたという記録があるようです。この船はその後中国に侵略していた日本軍に「日本と中国の友好の証」として利用されます。そして1940年船は引き上げられ、修繕を施され、改めて「献納式典」が北京飯店にて、日中各界人士の列席の元行われました。

 それから後のことは、この本にも記載がありません。私が1983年に目にしたこの船は陸に引き上げられているものの、全体が錆びついてしまった廃船でした。そのころに、忘れ去られようとしていたその船の歴史を聞いたのでした。それから18年、この船の歴史に出会いました。そこには、ちょっとした日本と中国の歴史が、隠されていました。

2002/01/04

 


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